八国山だより DIGITAL MAGAZINE P.21
空気という医療
Visual 1950年代シネマを想起させるモノクロームの階調。白衣の医療従事者や患者のシルエット。
昭和14年(1939年),
八国山の南麓に「結核サナトリウム保生園」が開園した。
その創設者は、矢野恒太(やの・つねた)——
あの第一生命保険の創業者である。
なぜ、金融資本家が医療施設を建設したのか?
その答えは、「経営学的合理性」と「社会的責任感」の複雑な混在にある。
結核は、当時の日本の死亡原因第1位だった。
戦前の日本社会では、
結核患者の数は数百万人に上り、
毎年10万人以上が死亡していた。
それは、都市工業化に伴う「公衆衛生の危機」だった。
労働者の多くは、
貧困、栄養不足、過密労働によって
結核に感染していた。
ところが、医学的には、
抗結核薬(ストレプトマイシン)はまだ発明されていない時代だ。
(ストレプトマイシンの発見は1943年)
では、当時、結核患者はどのように「治療」されていたのか?
答えは:「空気」である。
冷涼で、湿度が低く、日当たりの良い場所に置く。
適度な栄養と安静。
そして、「気候が身体を治す」という信念に基づいた
「気候医学」的な療養。
これが、当時の「結核治療」の実態だったのだ。
八国山が選ばれた理由は、
非常に合理的だった:
第一に、狭山丘陵が北風を遮り、
南向き斜面に大量の日照を受ける。
第二に、関東ローム層の水はけの良さにより、
湿度が低く、足下が常に乾燥している。
第三に、アカマツや雑木林が放出する
フィトンチッド(植物の揮発性物質)が、
呼吸器系に有益だと考えられていた。
つまり、八国山というロケーションは、
「自然が医療器具として機能する場所」だったのだ。
保生園には、当初200床のベッドが置かれ、
東京や横浜の資産家階級の結核患者が収容された。
(注:貧困層は別の、より劣悪な施設に送られた)
毎日、医師たちは患者に「日光浴」を強要し、
「新鮮な空気を吸うこと」を処方した。
そうすることで、
身体の免疫機能が「自然に回復する」と信じていたのである。
医学的には、これは「対症療法」に過ぎないが、
実は、それは一定の有効性を持っていた。
なぜなら、結核の進行を遅延させることで、
患者の生存期間を延伸することができたからだ。
つまり、「空気という医療」は、
確実に「時間を買う」ことができたのだ。
- Marginal
- 昭和14年(1939年)開園
- 創設者:矢野恒太(1880-1969)
- 第一生命保険の創業:1902年
- ベッド数:初期200床
- 患者層:主に中流以上の東京在住者
- 現況:新山手病院として現存(医療法人財団保生会)
- 気候医学の歴史:ドイツ医学からの輸入概念