八国山だより DIGITAL MAGAZINE P.21

空気という医療

2026年6月9日 · 創刊特別号

Visual 1950年代シネマを想起させるモノクロームの階調。白衣の医療従事者や患者のシルエット。

昭和14年(1939年), 八国山の南麓に「結核サナトリウム保生園」が開園した。 その創設者は、矢野恒太(やの・つねた)—— あの第一生命保険の創業者である。 なぜ、金融資本家が医療施設を建設したのか? その答えは、「経営学的合理性」と「社会的責任感」の複雑な混在にある。 結核は、当時の日本の死亡原因第1位だった。 戦前の日本社会では、 結核患者の数は数百万人に上り、 毎年10万人以上が死亡していた。 それは、都市工業化に伴う「公衆衛生の危機」だった。 労働者の多くは、 貧困、栄養不足、過密労働によって 結核に感染していた。 ところが、医学的には、 抗結核薬(ストレプトマイシン)はまだ発明されていない時代だ。 (ストレプトマイシンの発見は1943年) では、当時、結核患者はどのように「治療」されていたのか? 答えは:「空気」である。 冷涼で、湿度が低く、日当たりの良い場所に置く。 適度な栄養と安静。 そして、「気候が身体を治す」という信念に基づいた 「気候医学」的な療養。 これが、当時の「結核治療」の実態だったのだ。 八国山が選ばれた理由は、 非常に合理的だった: 第一に、狭山丘陵が北風を遮り、 南向き斜面に大量の日照を受ける。 第二に、関東ローム層の水はけの良さにより、 湿度が低く、足下が常に乾燥している。 第三に、アカマツや雑木林が放出する フィトンチッド(植物の揮発性物質)が、 呼吸器系に有益だと考えられていた。 つまり、八国山というロケーションは、 「自然が医療器具として機能する場所」だったのだ。 保生園には、当初200床のベッドが置かれ、 東京や横浜の資産家階級の結核患者が収容された。 (注:貧困層は別の、より劣悪な施設に送られた) 毎日、医師たちは患者に「日光浴」を強要し、 「新鮮な空気を吸うこと」を処方した。 そうすることで、 身体の免疫機能が「自然に回復する」と信じていたのである。 医学的には、これは「対症療法」に過ぎないが、 実は、それは一定の有効性を持っていた。 なぜなら、結核の進行を遅延させることで、 患者の生存期間を延伸することができたからだ。 つまり、「空気という医療」は、 確実に「時間を買う」ことができたのだ。
    Marginal
  • 昭和14年(1939年)開園
  • 創設者:矢野恒太(1880-1969)
  • 第一生命保険の創業:1902年
  • ベッド数:初期200床
  • 患者層:主に中流以上の東京在住者
  • 現況:新山手病院として現存(医療法人財団保生会)
  • 気候医学の歴史:ドイツ医学からの輸入概念
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